フルクラム通信

スターウォーズ考察記事などちまちまと

ディズニー買収後のスターウォーズにおけるプロット問題

ディズニー買収後以降ディズニー主導シークエル三部作を含め様々なスターウォーズ作品が単発映画やドラマシリーズとして展開された。

上記で「ディズニー主導」と記載したのはジョンファヴローとデイブフィローニの作品群と区別するためだ。

まずメインはスターウォーズナンバリングタイトルそしてスカイウォーカーサーガとして組み込まれたEP7〜EP9。そしてスピンオフ映画として「ローグワン」「ハンソロ」劇場公開作品として制作されたのはまずこの5本である。

まず3部作に関して様々な面から批判されているが結局根っこの問題は「3部作としておおまかなストーリーデザインが無かった(?)」というところが問題の根本なのだ。

3部作作品でキャラクターは続投するものの一貫性が無くキャラクターのストーリーアーチがそもそも成り立っていないという点から「グランドデザイン」なるものが無かったと邪推されても仕方がない。

唯一比較的一貫性があるキャラクターはカイロレンぐらいなのだ。(最もマスクを取ったり外したりも若干安定性がないのだが)

一方比較的評価されているローグワンは結局のところ「デススターの設計図を入手しEP4直前で終わらせる」というプロットがはっきりしていた(それでも序盤1時間はチグハグな面もあるが)

そして「ディズニーSW映画」に止めを刺してしまった形の「ハンソロ」はどこのファン層に向けた映画なのかわからないという...。

この「ハンソロ」の興業面での失敗を受け劇場公開作品として予定されていた「オビワンケノービ」はドラマ作品へと移行された。

だが実際のところある意味で「ディズニーが諦めた」のは「オビワンケノービ」の評価なのだろうと思う。

結局この作品も「オビワンである必然性」に欠ける作品であった

ベイルが助けを求められるのがオビワンだけだった。という忖度をして認識させていたが後の作品でアソーカとも連絡が取れるということになったことでいまいちな感じになってしまう。

そして敵側のポジションのキャラとしてベイダーや大尋問官や尋問官を「反乱者たち」からレンタルしたがそのキャラクターたちは最期が決まっているため倒すことはできない。だからリーヴァが登場したのだと思った。だがこのキャラクターを「倒さない」と登場させた意味すら無くなってしまう(もっともライトセーバーで貫かれても死なないのであればそもそも大尋問官がメインの悪役でいい...)

そして劇中ではちょこちょこと「意味のないファンサービス要素」が入ってくる。

クインラン・ボスの名前だけ出すのか...。

結局この作品で一番評価されたのはEP2前のアナキンとオビワンの訓練シーンだった。

最終決戦もそれなりに動いてはいるのだがカメラワークが酷すぎるというこれもまたディズニー主導SW作品に多く見られるポイントだ。

もっともシークエルのライトセーバーデュエルが「もっさりしている」のはプロップの問題という制作側の都合もあるが「ちゃんとしたライトセーバーの訓練を受けていないから」というファンの忖度解釈がまだ出来る。

だがジェダイ全盛期の訓練を受けているオビワンが隠れ潜む生活をしていたとはいえ「なんかまだもっさりしている」のはもったいない。

もっともEP3とEP4の中間だからこれぐらいなんだと忖度解釈をするのだが...。

結局のところ「オビワンケノービ」で評価されたのは「ヘイデンとユアンがカムバックする」というところでその絵面は良かったというところでしかない(この問題はシークエルでも同じである。

ようはディズニーとしては「人気キャラさえ出せばいいだろう」という考えが滲んで見えてしまうというのが問題点でありキャラに頼り切った結果ストーリーがなんか面白くないという共通の問題を生み出してしまう。

 

次項ではこの「過去作キャラのサプライズ」について考察したい。

 

シークエル世代とは?

シークエル3部作に対して批判的なあるいは「映画としても...」と既存のSWファンが述べると少なからず「シークエルでスターウォーズに出会いそれで好きになる世代が居る、プリクエルが評価され始めたのがその例だ」という論調は一定数見られる。

もちろんその可能性は否定しないし今後のスピンオフ作品等でチグハグな部分が補完され再評価されるという可能性も否定しない。

だがプリクエル時代とシークエル時代では「どの映画が他にあるのか」という部分が要素から何故かみんな抜けてしまっている。

プリクエル公開時期に同じように3部作構成や続編ものはシークエル時代と違いそこまで多くは無かったのだ。ざっくりおおまかに認識しても「ロードオブザリング」「ハリーポッター」「スパイダーマン」ぐらいでありここに「パイレーツオブカリビアン」を入れるか入れないかぐらいで「競合する作品群はあまり多くなかった」のだ。当時単発作品だったアバターは微妙に年代がズレているし「ナルニア国物語」はシリーズ途中で打ち切られた。今やビッグIPと化した「ワイルドスピード」もまだフランチャイズ化する前だったし「トランスフォーマー」もやはり年代がズレている。

奇しくも上記シリーズのほとんどがシークエルと似た時期に続編や前日譚を作っているのも面白いが。

 

だがシークエル公開時期になるとマーベルやDCをはじめとするユニバース作品やレジェンダリー主導のモンスターバース、巨大IPに成長したワイルドスピード等の「シリーズ物映画」が矢継ぎ早に供給され熱心な映画ファンですら全てを追いかけるのは難しいような年代になった。

その中で「映画としての出来」すら評価が曖昧なシークエルにハマる若い世代が出てくるのかと言われるとプリクエル時代とは映画業界そのものの構造まで考えるとなかなか難しいのではないかと思わざるを得ない。

そもそも他のユニバース作品は基本的には「⚪︎⚪︎2」などの表記ではなくサブタイトルをつけるパターンも多くその時点でいきなり「EP7」というこの前に6作品あるというハードルがあまり無いというのも判断材料にしないといけない。

ナンバリングタイトルとして作品を作れば作るほどシリーズのファンは呼べるが完全新規は入りづらいという現象に陥りやすいのだ。

特にスペースオペラ物としてならMCUから誕生した「ガーディアンズオブギャラクシー」の方がよっぽどスターウォーズらしいという論調すら当時あったのだ。

ディズニーがどこまで「スターウォーズ」という看板を掲げようと完全新規の人間からすれば比較対象はオリジナル3部作でもプリクエル3部作でもなくその前後に公開された映画になり熱心なマニアが持つ忖度エンジンは動かない。

 

その答えは5年後10年後あるいは20年後まで待つしか無い。

公開から数年経ったシークエル

初めての記事としてふさわしいのかどうかは疑問ではあるがなんだかんだシークエル3部作は何かと話題にはあがる作品であることは間違いない。

 

シークエルについて語るためにはそれ以前のSW事情にも触れないといけない。

2012年10月に「ディズニーがルーカスフィルムを買収する」と発表され同時に三部作の映画(シークエル)を製作するとアナウンスされた。

そして翌年には当時ストーリー的にも終盤に入りつつあったCGアニメ「クローンウォーズ」(以下TCW)を「新たな作品に集中するため」という理由で事実上未完結のまま打ち切った形になる。恐らく2014年から「反乱者たち」が放送されていることから当時TCWの権利を持っていたのがワーナーだったというところがIP権利的側面では大きかったのだとこの時点で邪推せざるを得ない状況になってしまった。

なにはともあれディズニー買収以降〜EP7公開までに行われたことは雑にまとめてしまうと「プリクエル3部作要素を限りなく減らす」ということだ。「限りなく」と表記した理由は少ないながらTCW S6があったからである。

TCWを打ち切った理由が「シークエル製作に集中するため」だけならば「反乱者たち」を製作する余裕もないはず...とプリクエル世代やTCW世代はモヤモヤした気持ちでEP7のプロモーションや映画を見ることになった。

そしてEP7はいわゆる「オールド世代」には概ね高評価を貰う結果となった。

そもそも基本的なプロットや出てくるビークルや勢力がほぼオリジナル3部作と変わっていないのだから良くも悪くも「接待映画」のような印象を持つしかなかった。だがまだEP7の時はギリギリのラインでファンからもそれなりの評価があり興行収入的に見ても「成功した」という形になった。だが内容面ではあまり面白いポイントは無く良い言い方をすれば「EP4をオマージュした作品」悪い言い方をすれば「ただEP4を今の技術で焼き回しただけの作品」という位置付けだった。

少し話は逸れるがほぼ同時期に公開されほぼ同じような立ち位置だった「ジュラシックワールド」の出来が良かった挙句にMCUの盛り上がりが過熱し始め「色んな作品から要素を持ってくる」がもはや当たり前となっていた時期にぶつけてしまったという影響も若干あるのかもしれない。

 

ただEP7時点ではほぼ全てのファンが「これからこのキャラクターたちがどう成長しどういう役割を持っていくようになるのか」という感想を持ちつつ劇場を後にした。

 

そしてEP8でその期待すら壊される結果になる。出自が謎だったレイは「何者でもない」とされフィンはコメディリリーフ的ポジションになりポー・ダメロンはただただ上官の命令を聞かないパイロット、サーガの最終的な敵になると思われていたスノークは途中退場しオリジナル作品から人気だったアクバー提督ナレ死で終わらせハイパースペース特攻という今までの原則を覆した現象を起こしフォースによる宇宙遊泳やワープ技術までしてしまった。レイとレンの共闘シーンは絵面は今までにありそうでなかったため評価されたが殺陣の美しさも無くただただ力まかせにライトセーバーを振り回しているようにしか見えなかった。

終盤に描かれたカイロレンとルークの対決も真面目なライトセーバーデュエルが見れるのかと期待させておいてルークはその場におらずデュエルと呼べるような代物ではなかった。

だが「今までの積み重ねに甘えるのではなく新しい試みをしてみる」という事をしたのはシークエルにおいてはEP8だけである。その部分やそこに至る決断に関しては評価すべきだと思う。

と同時にこの辺りからローグワンや反乱者たちなどのスピンオフ作品の方が面白いのではないかという疑問を持ち始めEP9に対する期待値はかなり下がって状態になった。

そして一応のサーガの締めくくりであるEP9はもはやただの敗戦処理的な作品であった。

前作EP8で良くも悪くも繰り返された「いやそうじゃない」というポイントを全てまた覆すことしか出来ない作品に成り下がってしまった。

墓場からパルパティーンを引っ張り出してくるというEP1〜EP6の過程を無駄だったと思わせるぐらいの展開だった。

前作で「特別な出自を持たない」とされたレイはパルパティーンの血筋とされ叩きに叩かれまくったローズはもはや背景にいるだけのようなキャラクターになりヤケクソのようなスターデストロイヤーとヤケクソのような援軍、極め付けはかつてのジェダイたちの声と「私はジェダイ」でよくわからないままパルパティーンを倒しスカイウォーカー両名が嫌っていたタトゥイーンにライトセーバーを埋め新しいセーバーを持ったレイが何故か「スカイウォーカー」を名乗るという「もはや何がしたいのか」という作品になってしまった。

前作で過剰なまで行われたツイストを結局全部無かったことにしたいだけの作品でしかないのだ。

ではEP1〜EP6を記憶から「無かったこと」にして純粋に3部作として評価しようとしても成立しないようなアークになってしまった。

唯一まだギリギリ成立するのはカイロ・レンの3部作として見るなら成立しないこともない。というのはオリジナル世代からもプリクエル世代からも同じ評価ではないだろうか。

プリクエルを「光から闇へ」としオリジナルを「ただの青年が光(希望)になる」その続きとして「闇から光へ」とするならまだ一定の評価は得られただろうし「スカイウォーカーサーガ」としても成立する...と言えなくもない。

 

このEP8〜EP9で少なくない数のファンが離れてしまったのだがそれを引き戻したのが

最初に切り捨てたデイヴフィローニが作るスピンオフという皮肉めいた状況を生み出し今やSWのスピンオフが出るたびに

フィローニ組が作るのかディズニーサイド主導なのかでまず作品に対する期待値が大きく変動することになってしまった。

 

シークエルが成し遂げたことは現状では

以前までは意見が合わなかったオリジナル世代とプリクエル世代両方から「うーん...」と思わせ対立構造に近かったファンダムを同じ意見で見れる仮想敵を作っただけというのをナンバリングでしてしまったのは非常に受け入れ難い事実である。